年・年齢 | 出来事・作品 |
---|---|
昭和8年(1933) 0 歳 |
1月26 日、大阪府堺市に生まれる。本名、義一(よしかず)。 |
昭和14年(1939) | 泉北郡浜寺尋常小学校(現・堺市立浜寺小学校)に入学。その後、学童疎開を経験する。当時の状況については、「人間の一番汚いところ、醜いところを見てみてしもうた。子ども心に『地獄を見た』と思ったね」と後年述懐している。 |
昭和20年(1945) | 私立浪速中学に入学。少年飛行兵を目指して5月に航空機搭乗員養成所に入るが、まもなく終戦。終戦時には両親ともに病気入院中であったため、闇市でレポ屋として大阪市内を走り回って情報を伝えて、両親に代わって家計を支えた。軍国少年として国に裏切られたことに加え、食糧難の占領下、無法地帯ともいえる闇市を舞台に必死で日銭を稼いだ経験は、独立独歩の姿勢や在野精神を育み、後の人生に大きな影響を与えたといわれる。 |
昭和25年(1950) | 新制浪速高校卒業 立命館大学法学部に入学するが、まもなく中退し、 |
昭和26年(1951) | 大阪府立浪速大学(現・大阪府立大学)教育学部に入学。在学中から文芸や戯曲、ラジオドラマ脚本の懸賞募集に投稿をつづけた。 |
昭和27年(1952) | 入学の翌年には経済学部へ転部。もともと演劇好きだったことから演劇部にも入部する。大阪女子大在学中の統紀子夫人と知り合ったのはこのころ。両大学の演劇部合同公演をきっかけに親しくなり、卒業後に結婚する。 |
昭和30年(1955) | ラジオドラマ「大黒主命」「花火」「あら、あら、かしこ」放送 |
昭和31年(1956) | ラジオドラマ「うちうみ」「三等待合室」放送 |
昭和32年(1957) | 卒業前年には、ブラジル移民の夢と現実を描いた「つばくろの歌」を執筆し文化庁芸術祭に参加、戯曲部門で文部大臣賞を受賞した。また、戯曲「虫」を発表。安アパートに住む売れない芸人たちを描いたこの戯曲は、関西芸術座で上演され、高く評価された。当時の作品には社会的弱者に目を向けたものが多く、同時にユーモア精神に満ちていた。 |
浅草フランス座の文芸部員であった井上ひさしは数十篇のラジオ・ドラマを書き投稿をつづけ、昭和32年には一年間の賞金総額が十万円を超えたが、その一方、大阪府立大学中の藤本義一は年間六、七十万円の賞金を稼ぐ「投稿王」であり、「東に井上ひさし」「西に藤本義一あり」といわれた。以後、藤本義一はラジオドラマの脚本を執筆。 | |
昭和33年(1958) | 大阪府立大学経済学部卒業。統紀子夫人と結婚。 宝塚映画で脚本助手を務める。まもなく川島雄三監督に師事して、映画「暖簾」の脚本などを手伝う。川島監督からその才能を高く評価される。 |
昭和34年(1959) | 映画「貸間あり」では共作者となり、その後も「駅前シリーズ」などのヒット映画の脚本を手掛けて、頭角を現していく。 |
昭和35年(1960) | 長女誕生 |
昭和36年(1961) | NHKのドラマ「現代人間模様」を執筆するなど、テレビドラマの世界に進出。テレビドラマに加え、ラジオドラマ、舞台など幅広いジャンルで驚異的な数の作品を発表し、人気脚本家の地位を確立した。特にテレビ・ラジオのドラマ脚本について、各局から引っ張りだこの状態だった。 |
昭和38年(1963) | 次女誕生 |
昭和40年(1965) | 脚本家として活動する傍ら、藤本義一の名を広く知らしめたのが日本テレビ・読売テレビ共同制作の「11PM」の司会である。放送開始から1990年(平成2年)の終了までの25年に渡って毎週2回を担当。一部では低俗番組というレッテルも貼られたが、風俗から社会問題まで時代に鋭く斬りこむ姿勢が評判を呼び、長寿番組となった。 |
番組の司会を始めたことで、各局からの脚本の依頼は次第に減っていく。そんな中、かねてより「誰も読んだことのない小説を書きたい」という思いを抱いていたことから、小説の執筆を開始。 | |
昭和43年(1968) | 長編小説第1作「残酷な童話」を発表。 |
1969年(昭和44年) | 次作「ちりめんじゃこ」が第61回直木賞候補となる。さらに「マンハッタン・ブルース」が第62回の候補に。 |
1971年(昭和46年) | 「生きいそぎの記」が第65回の候補になるなど作家としての地位を確かなものとしていく。 |
昭和49年(1974) | 小説「鬼の詩」が第71回直木賞を受賞。上方落語家の半生を鬼気迫る筆致で描いたこの作品に対して、柴田錬三郎氏は「選評」において、「努力すればするほど、生きることの惨めさを露呈する人間の哀しさが、まことに巧妙に、描かれている。」と評している。本作品は作者自身が脚本を担当して映画化され、桂福団治が主人公を熱演した。 |
直木賞受賞をきっかけに、活動の中心は小説、エッセイ、社会評論などの著作に移ったが、旺盛な創作意欲は終生変わることがなかった。作家としての代表作には、「掌の酒」「蛍の宿」「迷子の天使たち」「人生の賞味期限」などがある。 | |
昭和53年(1978) | 早くから漫才や落語などの大阪の大衆芸能を応援し続けたことでも知られる。上方の笑いを応援する「笑(しょう)の会」の村長を務め、その後23年間、若い演者や作家の養成に尽力した。 |
昭和55年(1980) | 日本放送作家協会の関西支部長に就任。放送作家による「ぶっちゃけトークの会」の開催、プロ作家養成スクール「心斎橋大学」の創設、制作現場のスタッフに光を当てた「関西ディレクター大賞」の表彰などを通して、放送業界への恩返しを続けた。 |
平成7年(1995) | 阪神・淡路大震災が発生する。在野精神に基づき、庶民目線に立った作品を数多く残してきただけに、その惨状に大きな衝撃を受ける。そこで、被災遺児のための児童厚生施設「浜風の家」の建設呼びかけ、代表として10万人以上からの寄付を集め施設を建設するとともに、施設を運営する「社会福祉法人のぞみ会」の初代理事長も務めた。(後任の理事長は統紀子夫人) |
平成22年(2010) | 多方面にわたる活動を続ける最中の、軽度の脳梗塞を患うが、幸い治癒して後遺症もなく復帰。 |
平成23年(2011) | 5月、難病である中皮腫と診断される。本人の意思に従い抗がん剤治療も行わず、家族とともに静かに時を過ごした。 |
平成24年(2012) 10月30日 享年79 | 死去 |