放送人インタビュー第6回 より
掲載日:2015/10/30
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「ある時期からテレビにユーモアがなくなったね。かわりにギャグがでてきた。どう書き手のほうが間違ったのか、勘違いしたのか、わからんけど。ギャグはユーモアとは根本的に発想がちがう。モチーフがちがう。今のテレビはギャグばっかりだね」
小説家兼シナリオ・ライターの藤本義一の実感である。テレビ創成期の昭和30年代はじめから、脚本家・台本作家として数々のテレビドラマ等を書き、さらに長年、テレビの司会者などもつとめてきた。テレビに愛情をいだき、テレビとともに歩んできたといってもよい。それだけに藤本義一の「今のテレビ」に対する見方は厳しい。
「ある時期で、テレビはもう終わったといっていいね」
ともいう。活字で記すと強い言葉だが、関西弁の柔らかなトーンで発せられるので、突き放す印象ではないが、なるほどという思いにさせられる。
西宮市の閑静な住宅街の一角にある自宅居間でお話をうかがった。白髪で特徴的な大きな目。無駄肉のないスラリとした体躯。74歳になるのに「老」をまったく感じさせない。端然とした姿勢で座り、低くよく通る大阪弁でよどみなく話す。
「テレビでユーモアのかわりにギャグが出てきたのは、東京オリンピックをはさんで新幹線が開通し大阪万博が開催されたころからやね。ギャグはギャグとして悪くはないが、今のテレビはギャグばっかりでユーモアがない。これが問題やね」
変化の分岐点は、ちょうど日本が「奇蹟」といわれる「高度成長」をとげ、世界から「経済大国」といわれるようになったころである。膨大な数の「団塊の世代」が新しい消費者として大挙して社会に登場する時期と重なる。
衣食足りて礼節を知るという言葉があるが、どうもそうなっていない。社会や文化にあたえるテレビの影響力は強大だが、そのテレビが現在のようだとますます社会や文化の「劣化」が進むのではないか。テレビ創成期からこのメディアに深くかかわってきた藤本の実感である。
藤本義一は1933年1月26日、大阪府堺市で生まれ育った。堺というと織田信長の時代より「自由都市」といった趣があり、文化水準も高かった。この土地の「風土」が後の作家・藤本義一に何らかの影響を与えているはずだ。
藤本は浪速高等学校をへて大阪府立大学経済学部に入学するが、在学中、映画に強い興味をもち、シナリオの勉強をすると共にラジオドラマの脚本を書き始めた。
当時大学を出てもなかなか就職口がなかった。で、藤本は中学の社会科の教師資格をとった。これは一種の「保険」であり、将来の仕事はシナリオ・ライターと思い決めていた。
「当時、図書館にいっても学生は電子工学とか科学系のものを読んでいて、文学はあまり読まれなかった。ぼくは文学に興味をもっていて文学書のコーナーによく足を運んだ。そこにアーサーミラーとか内外の戯曲などまっさらな本が並んでいた。そんな類の本を読んでいるうち、NHKが脚本の懸賞募集をしていることを知った。当時賞金が5万円やった。いまでいうと500万円ぐらいやね。それと文部大臣賞が20万。今だったら2000万円でしょ。当時、アルバイトの日給が250円ぐらいですから大変な額です。で、就職するよりこっちのほうがいいと、このふたつを1年半かけて狙おうと思って脚本を書きだしたんです」
就職活動などやめようと思ったのは、藤本義一らしい「合理性」からだった。
「卒論に日本の雇用問題をとりあげたんです。資料をあつめたりして勉強していくうち、それまでの日本には定年とかボーナスとか手当てとかはないということがわかってきた。が、これからはそういうものがつくられていく。その課程でいろいろ矛盾が生じるし、仮に就職したら俺がその分かぶることになる。で、就職しないほうがいいという結論をだした」
当時、いくつかの脚本や放送台本の懸賞募集があったが、いつも最終選考に残り、受賞したりする青年が二人いた。一人は東京在住でその後、劇作家・小説家として独自の位地をしめるのは井上ひさしであり、もう一人が大阪の藤本義一である。懸賞の「投稿者」としお互いをライバルとして意識し意欲を燃やしていたことは、すでに一種の「伝説」になっている。その後、二人が「放送作家」をへて直木賞を受賞し、幅広い活躍をつづけていることは、衆知の通りである。
当初、藤本は見よう見まねで脚本を書きはじめたが、懸賞に応募したりするうち、めきめき腕をあげ1957年、ラジオドラマ『つばくろの歌』で見事、同年度の芸術祭文部大臣賞を獲得した。まだ大学在学中であり、晴れがましいスタートであった。
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卒業後は、輝かしい「実績」をもとに当時、映画を制作していた宝塚映画にはいった。といっても毎月の給料をもらう「会社員」ではなく、実態は「フリー」であった。そこで都会ものを撮らせたら他に並ぶものがいないといわれた異才、川島雄三監督につき、映画のシナリオ技法をたたきこまれた。映画制作の現場についてもいろいろと学ぶことが多く、『悪名』や『貸間有り』『駅前シリーズ』などの映画シナリオを書いた。まだ映画の「黄金期」であった。
「あのころは、とにかくよく書いたね」と藤本は回顧する。「映画のほかテレビドラマもよく書いた。例えば1週間に30分ドラマ1本と1時間ドラマ1本とか、書きまくった。30歳まではほとんど休みなしだったね」
ラジオドラマも引き続き書いていた。当時、一緒に関西でラジオを書いていたのが田辺聖子だった。
「田辺さんとは小さなドラマを一緒にやったりした。そのあと、田辺さんは芥川賞をとった。当時、ぼくはまだ小説を書いてなかった。で、みんなの前で俺は絶対直木賞をとるからなといったら、みんな笑ってたね。ラジオのころから一緒にやってた関係で、田辺さんとは長いつきあいですよ」
余談ながら、2006年秋から放送を開始したNHKの朝の連続テレビ小説『芋たこなんきん』は田辺聖子の自伝的なドラマで、藤本義一をモデルにした人物も登場する。
藤本のテレビとの出会いはこの世代の例にもれず街頭テレビであった。
「初めて見たテレビはプロレスの中継で、力道山が出ていたと思うが、これは映画の街頭版だと思ったね。神戸の三宮などの繁華街に受像器がおかれていて、人がつめかけてましたよ。偉いものがでてきたなと思ったけど、映画界ではまったく驚いていなかった。ぼくはテレビと映画の両方を知っているが、当時、映画関係者はテレビをずっと下に見ていた。テレビの創成期、テレビから映画界に誘いがあったんだが、監督や助監督のチーフクラスの人は動かなかった。動いたのは助監督でもセカンド、サードクラスで、かなりの部分がテレビに流れていって、テレビドラマをつくる担い手になった」
やがて映画はテレビに食われ、観客数が10億人から1億人ほどに激変していくのだが、当時、映画関係者の間ではテレビのことを「電気紙芝居」などといい一段と低く見ていた。今では考えられないことだが、当時、「五社協定」などの縛りがあり、映画会社の専属俳優はテレビに出ることがむずかしかった。この穴を埋めたのが演劇関係者だった。特に劇団が多く集まっている東京では舞台関係者が中心となって草創期のテレビドラマを支えたといっていいだろう。
ところで、藤本の師匠の川島雄三監督はテレをまったく意識していなかったという。
「あの人は一番いいときに亡くなったといえるかもしれない。師匠(川島監督)に出会ったのは22,3歳の学生時代です。そのとき、師匠は37歳。亡くなったのは47歳だから10年師匠についていたことになる」
川島雄三監督について、その後、藤本は『さよならだけが人生だ』という本を書いた。川島監督が亡くなる昭和38年ごろ、すでに映画はテレビに食われて「黄昏時」にあったといってよい。日本でテレビ受像器が急激に普及したのは昭和34年で、「皇太子ご成婚」が契機となった。このころから藤本の仕事も映画シナリオからテレビ台本の仕事にシフトしていった。
テレビの勃興期であり、こなしきれないほどの注文があった。精力的に仕事をこなす中、テレビドラマを書く上で藤本が特に気をつけていたことがある。
《食べ物と占いはなるべく避ける》
その理由を藤本はこう語る。
「役者が食べているシーン、いわゆる《メシ食いドラマ》ですが、あれだとカメラマンが育たない。演出も育たない。メシ食いのシーンではカメラを固定したまま切り返しですむ。ドラマ以外の番組でも、例えばゲストがでてご馳走を食べれば、絶対うまいという。しかし、うまいといくら役者がいっても、香りや味覚はテレビでは伝わらない。料理の善し悪しは、香りや味覚であるはずなのに、これがまったく伝わらないんです」
伝わらないものを、さも伝わるように《ごまかす》のは邪道である。じっさい、昔のカメラマンは良い意味の職人気質があったので、伝わらないものを写すのはいやがったという。
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藤本たちが原則としてはずしてきたことが、今やテレビでは主流になっている。もっともテレビドラマでは「ホームドラマ」が激減したので、「飯食いドラマ」という言葉も死語になりつつあるが。食べ物関連の番組はテレビに氾濫している。さらに占いや易、霊感などの番組も多い。この類の番組を藤本は「邪道」であると切り捨てる。
「背後霊がどうのこうとか、食べ物屋の紹介とかは、素人のゲストですむんです。一番金がかからない。それで数字がとれるから、その類の番組が増えるのかもしれないが、すごく薄っぺらい。今のテレビは低いところで生きながらえているのと違いますか」
今のテレビ関係者には痛い言葉だろう。あるいは「年寄りの小言」と片づけてしまうのかどうか。テレビの「大先輩」の言葉を真摯に聞いて欲しいものだ。
藤本義一というと、あるいは「作家」というより、「司会者」と思っている人がいるかもしれない。一般的には露出度の多いテレビに出ていたので、「司会者・藤本義一」の印象が強い。
以前、月曜から金曜までの毎夜11時より、日本テレビ系で「イレブンPM」という番組が放送されていた。東京と大阪にわかれていて、東京の日本テレビ制作は大橋巨泉が司会者で、大阪の読売制作のイレブンは藤本義一が担当していた。
今でいう広義の「情報バラエティ」番組といっていいのか、東京制作の大橋巨泉が司会するほうは、ちょっとしたお色気やお遊びをまじえた都会的で洒落た番組で、エンターテインメント色が濃厚だった。一方、藤本義一司会のほうは、ゲストを呼びじっくり話をきく「トーク番組」の趣が強かった。このふたつがうまくバランスをとり、25年以上も続く長寿番組として学生や若いサラリーマンなどを中心に根強い人気を得ていた。
この番組、大橋巨泉の担当回には構成台本があったが、藤本義一の担当する回には構成台本はなかった。藤本がゲストとぶっつけ本番でやりとりする中から味のある話やユーモアのある面白い話、胸のすく話、珍談奇談などが浮かび上がらせるものだった。
「簡単な進行表があるが、ゲスト名の他に《よろしく》と書いてあるだけ。だから、自然な対話をやっていけた。道で出会った人と話すような感じでリラックスしてやりましたね」
筆者などもイレブンPMはよく見たが、大橋巨泉と藤本義一という対照的な個性が車の両輪となり、独特のおもしろさを醸していた――と記憶している。
読売テレビ制作の回は、ひとえに話の引き出し役である藤本義一のセンスと話術のうまさに依拠していたといってよいだろう。肩の力をぬいた大阪弁で、すっとゲストの懐にはいて話をひきだす。何より庶民性とユーモアが色濃く漂っていた。上方の話芸と藤本義一という個性が一体となってつくりだすムード。「大人の鑑賞」に耐えられるエンターテインメントであり、残念ながらこの種の「大人の番組」は今の深夜のテレビのどこを探しても見ることはできない。
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物書きにはしゃべりが苦手な人が多いが、藤本は違った。独特の語り口で「イレブンPM」の司会を、昭和30年から昭和55年まで25年つづけた。
「そのうち、15年間は小説書きながら続けた。その前の10年はテレビのドキュメントや海外取材をやりながら司会を兼業してたですな」
放送台本を書き始めたころから数えると、ざっと50年間、テレビと深くつきあってきたことになる。
この間、いろいろなことがあった。たとえば、こんなエピソード。当時、フジテレビに『スター千一夜』という番組があった。15分の短いトーク番組で毎回スターをゲストに呼び話を引き出すのである。
「あそこから引き抜きにきた。ぼくが37,8のときかな。支度金として1000万だすと。今の1億円です。わたしは断った。そのことをスタッフが知ると、面白いものでスタッフは団結していくんですね。当時、イレブンの巨泉の出演料を知っていたけど、ぼくのギャラは彼の8分の1です。同じイレブンなのに巨泉に比べて遙かに安い。面白いもので、それでかえってスタッフと一体化していくんです。安くても頑張る。いや、安いから頑張る。そういう生き方が当時のテレビの生番組のスタッフにはあった。それがテレビの一番の良さであったと思うんだが、いつの間にか変わってしまった。関係者が心意気ではなくギャラによって動くという空気をつくりあげてしまったのと、ちがいますか」
「職人気質」の消失といっていいのかもしれない。平成になる前の昭和には、テレビの現場にまだそういう空気が残っていたが、今は「絶滅品種」といっていいかもしれない。
「例えば今のワイドショー。表現や形が旧いね。カメラが平板で間にコマーシャルが多すぎるし、全体に薄味になってしまった。カメラの職人がいなくなったんですね。音声の職人もいない。とにかくアマチュアが多くなった。簡単に取り替えのきく外部スタッフをいれていることも原因です。機材の性能がよくなって、誰でも機械をあつかえると思っている。昔のテレビは職人が支えていたので、独自の味、独自の主張をもっていた」
なぜそうした「職人文化」が失われてしまったのか。ひとつには現場での鍛え方が違うという。映画からはいってきた職人が多かったことも一因である。
「それに生(放送)の時代の迫力です。今はバラエティショーなどいろいろのものが次々でてくるけど、全体に細切れという印象だ。ぼくは、平成になる前にテレビは終わったと思っています。今のテレビはなんなんでしょうね。ただ映っているということでしょうかね。画面に深度がなくなった。機材はみんなよくなったけれど、平面化したしまった。ドラマに例をとると、ビデオじゃあなくキネコ(16ミリのフィルム)を使っていた時代のほうが画面の深度が深かった。当然、人物造形も深かった」
藤本義一は長く放送にかかわってきて、いろいろな思いがあるが、やがてこんな考えに到達したという。
「放送文化というのは《時間》を軸にしている。あるとき、この時間を自分の《心象》にしようとしたとき、《時間とは一枚の桑の葉である》と思った。自分自身は一匹の小さな蚕ではないか。そう思ったとき、ぼくは放送文化を掌の中で握り締めた気がしたんだね。桑の葉(時間)を貪り食えばいいと。食えば蚕は成育し、その結果《繭》の中に入り、サナギとある。つまり、一旦は融解して幼虫から成虫になるという考えです。これを意識した時、それまで私を囲んでいた放送文化論は一瞬にして霧散してしまった」
これに関連したことだが、藤本はある経済雑誌に以下のような要旨のエッセーを記した。
「文化」の“化”に草冠を付けると“花”になる。これは華やかな芸能であり、一方革という字を偏にすれと“靴”となる。これが実用としての文化である。さらに化を冠にすると“貨”となる。金銭、金融、経営の基礎である。そして化を偏にすれば“傾”となり、カブクとなり、カブキに継がる古典の掘り起し――というふうになるというのである。
現在、放送技術は急速な進歩の中で音声を映像に新しい分野を開拓して、時間を短縮し、より新しい報道を競うようになった。その結果、時間の短縮に伴う報道する側の思考が時間を争うために粗雑になった。
「それで、局の報道方針がどれも似たようなものになってしまった。台風情報や地震情報と同じような感覚で、《社会現象の推移》を伝える。これは《放送文化》ではないと再認識するべきだね。ニュースのワイドショーを見ていると、司会者の個性がなくなっている。目立っているのは《個癖》です」
藤本にいわせると、繭(コクーン)という一局(ステーション)の独自の方向性が完全に失せて、放送文化そのものに歪みを生じている。それがテレビの現状であり、技術の進歩がかえって文化の選択を混乱させていることになる。
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イレブンPMの司会をやったことで顔と名前は知られたが、マイナス面もあった。どの局もドラマ脚本の執筆を依頼しなくなってしまったのである。
「それまでぼくはNHKをはじめ朝日放送や毎日放送などでドラマ脚本を書いていたが、まったく原稿依頼がなくなってしまった。イレブンは低俗番組であり、そんな番組の司会をやっているからということです。ぼくは原稿書くのが本来の仕事だから、時間の余裕もできたんで小説を書き始めた。昭和41年だね。学生のころから小説を書くということはまったく考えていなかったんだが」
注文の激減については別の理由もあった。ちょうどそのころからドラマ制作が東京中心になり、関西のテレビ局でのドラマ制作本数が減ってしまったのである。
「放送作家の仕事が関西ではなくなってきたんです。東京の人は、だったら東京に出てきたらいいじゃないかという。しかし、関西弁を東京で書くことはない。関西で書くから関西弁なんです。そういう矛盾が昭和40年から50年までに出てきた。東京にいると気づかないかもしれないが、当時から、あらゆることが東京中心であり、放送作家と一口にいっても、東京と関西では戦後の流れが違う」
昭和40年代はまだテレビドラマの「黄金時代」といってよい時期で、ゴールデンアワーにはドラマがあふれていた。自然、東京在住の脚本家には多くの仕事が舞い込んできたが、関西では違ったと藤本はいう。
「だいいち、関東と関西では原稿料も違う。関西のヤツがたまたま東京で仕事をやったらすごくギャラをもらってきたとよく仲間内で話してたね。今も格差がある。構成作家のギャラも違う」
よく「地方の時代」などといわれるが、テレビひつととっても東京と大阪では、落差というより格差があるのである。
おかげで藤本義一は小説を書くことになり、この分野でも非凡な才能を発揮し、以前、宣言した通り、上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で直木賞を受賞した。その後も『生きいそぎの記』『元禄流行作家―わが西鶴』などの小説を書き続けている。
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活字表現と映像表現では、似ている面があるものの、本質的に違う。両者の違いについて、藤本は端的にこう指摘する。
「ドラマ(映画)は文学というより数学ですね。例えばAさんとBさんが恋愛するとAプラスB。結婚すると二乗。さらに家の中にはいっていくと、Aの二乗プラスBの二乗……といった具合になる。だから、浮かんだ台詞をどう割り振っていくかに腐心する。小説はそういう《数学》はいらない。書きやすさからいえば、小説かな。といっても、ものによりますね。モチーフによって書きやすくも書きにくくもなる。小説は空間を自由に飛べますから、その分、書きやすい。ドラマは飛んだらおかしくなってしまう」
原稿用紙にペンで書く。この姿勢は学生時代から一貫して変わらないという。
今後、テレビはどうなっていくか。これについて、藤本の意見は悲観的だ。
「ドラマもなにか頼りない。でも、もう元にもどすことは不可能やね。これからはアニメが中心になってくるんじゃないかな。今のままだとテレビはスポンサーを失っていくのと違いますか。博報堂や電通をみていると、消費者金融のあつかいが多くなっている。あれが崩れることによって、全部崩れてくるんやないかな。テレビそのもの、撮影や制作そのものの形態がかわらなければいけないのに、50年前と部分的にしか変わっていない。だから、とにかく人間を沢山だしてギャグとばして――といったやり方で作る。それが《テレビである》というところに落ち着いてきたのかもわからんね」
これではじり貧になる、と藤本は警告しているのだが、テレビ関係者は今と明日のテレビにどの程度、危機感を抱いているのだろうか。危機を顧慮する余裕もなく、とにかく目の前の「数字」にとらわれ、数字をあげることに腐心し、それで精一杯という状態ではないのか。
五〇年以上も放送にかかわってきたので、ラジオ時代もふくめると藤本義一の仕事は膨大である。ドラマだけではなく、CMの制作も手がけたほか本人がCMにも出演したりもした。構成作家として数々のドキュメンタリー作品も残している。藤本はこの面でも、「作家性」が失われてきていると感じている。
「昭和20年代から30年代はじめまで、田辺(聖子)さんなども構成作家としてやっていた。当時は、構成《作家》ですから、作家独自の視点でやった。そのあと局と一緒にやるようになり、局から《ああせい、こうせい》といわれ、構成作家はその通りやるようになった。だから《ああせい、こうせい作家だ》といわれるようになった。本来の構成作家は東京オリンピックで終わったんじゃないか。少なくとも関西ではそう見てますね。今は全部ふくめて《ああせい、こうせい》作家になってしまった」
言い得て妙である。
生放送時代の緊張感をもっている「放送人」と、その時代を知らない「放送人」とでは、当然のことながら放送というものに対する見方に落差がある。
例えば映像の編集。ビデオができ編集作業ができるようになったが、初期のころはビデオが高価であり、今のように簡単にカットしたりできなかった。
「ビデオ録画したものを編集でいっぺん切ったら当時の金で7万円かかった。今の150万円くらい。だから、現場には今と比較にならないほど緊張感があった」
生放送の緊張に通じるものである。
藤本は一昨年(2005年)北欧にいったが、そのとき、テレビのことで気づいたことがあるという。
「向こうでテレビを見てたら、午後8時から11時までいつもF1(自動車レース)をやっている。同じ絵をうつしているのにみんな見ている。なぜ毎日毎日F1ばかり見ているのかと思ったら、出てくるゲストが違う。ドライバーであったりエンジニアであったりと。で、見てる人がリモコンで押すと絵がとまる。専門家のゲストが出てきて、タイヤがここでスリップしているときにこんな問題があるとか、ドライバーとの距離がどのくらいあってと、ひとしきり解説する。リモコンを離すと、また画面の車が走りだす。あれはテレビ的だと思った。テレビの特性をよく出している」
ノルウエーやデンマークでも、その類の映像を流していたが、うまいテレビの使い方だと藤本は思ったという。
「向こうでは、テレビというものは日本みたいにいつでも映るものではないですわな。スペインにいったときだったか、向こうの新聞社で面白いことをいってましたね。《お前、しょっちゅう時計みるかい。見ないだろう。でも、腕には巻いてる。テレビもしょっちゅうは見ないけど、そこにある》とね」
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藤本義一は創作家としてものを創るには《あいうえお憲法》があると、かねてから作家志望者などに話している。
★「あ」はアイディア。
★「い」はインタレスト。
★「う」はウオーク。行動、取材。
★「え」はエキサイティング。
★「お」はオーナーズシップ。これは俺が創ったのだという確認。
「この5項目がそろわんことには、小説もドラマも完成しない。4項目まではまだ許せますけどね、これが3項目になってしまうと中が抜けてしまって、創作にならない」
30年ほど前にこの「憲法」について経済雑誌に書いたことがあるということだが、それを読んだ経営者は今でもこの「憲法」を守っていて、藤本に会うと、
「うちは、あいうえおでやっています」
などというそうである。
そんな「創作哲学」をもっている藤本義一は、当然テレビの現況に厳しい見方を抱いている。
「テレビの視聴者は、テレビからの情報が自分だけに与えられているものと思っている。テレビの情報が広くあたえられていることを忘れているんだね。一方、送り手は《テレビはあなただけに教えますよ》って感じでみせる。まだまだ新しい方法があるはずなのに、テレビ局が新しい方法論をつくるのを怠っているんじゃないですかね。手間もお金をかけないから、ますますつまらなくなる」
この傾向が続けばテレビは「死ぬ」と懸念しているのである。
藤本義一によると、ものを創る人間はなるべくサラリーというものがないほうがいい。
「月極に一定のカネがはいってくると、イメージが半分になるね。電通にいったやつとか、サラリーもらって生活は安定するかもしれないが、アイディアが半分になってしまう。で、定年がきたとき全部失ってしまう」
藤本義一は日本放送作家協会大阪支部長をやっており、大阪支部主催で長年「心斎橋大学」という講座をつづけている。「総長」として後進を育てているのである。1年に40時間ほどの講義があり、藤本自身8時間ほど直接教えている。
「生徒の傾向はかわっていないね。エッセーを書くヤツと童話のほうにいくヤツが多くて、映像のほうにいくのが少ない。これまでに1500から1700人ぐらいが卒業したが、そのうち5パーセントがセミプロになっている。一部は東京にいって活躍している人もいるが、生徒は主婦と学生と定年後の人が大半。関西弁は東京の4倍あるんです、日常の言葉が。文章にしていくと2倍ぐらいになる。東京のやりとりとは違うんですね」
テレビ作品のなかで一番印象に残っている作品はNHKの「現代人間模様」の「重役室」だという。1960年代前後、「現代人間模様」というドラマ枠がNHK大阪放送局にあり、藤本義一は演出の和田勉と組んで何作も脚本を書いている。その後の「ドラマ人間模様」に結びつくドラマ枠であった。民放では単発ドラマで仕事をした鶴橋康男を評価している。
「この二人とも好きだね。好きっていうのが一番。二人とも、自分の時間を忘れるような、いいものをつくるよ」
現在、藤本義一は小説やエッセーを中心に執筆するほか、ときどきは劇作なども書きながら、テレビのコメンテーターとして出演し、さらにラジオのパーソナリティもやっている。TBSラジオをキーステーションにJRN加盟ネット7局で平日に放送されている「藤本義一"聞きすて御免"」では、社会問題や環境、歴史、民俗、風俗、食文化等々、幅広いテーマにわたって「ギイッチャン」節を聞かせている。
一方、阪神大震災では両親を亡くした遺児らのために心のケア施設の建設に取り組み、1999年「浜風の家」をオープンした。
何事にも旺盛な好奇心と庶民感覚は消えていない。テレビばかりでなく日本社会にも「ユーモア」が失われつつある今、ユーモアをとりもどすための活動を活字と映像の両面で続けていって欲しいものだ。
(敬称等は省略させていただきました。文責:香取俊介)
2006年9月 西宮市の藤本義一宅にて
プロフィール
香取 俊介(かとり しゅんすけ)
★1942年、東京生まれ。
都立国立高校、東京外国語大学ロシア語科卒。
NHK(報道局外国放送受信部、番組制作局ドラマ番組班)をへて、1980年より、フリーの脚本家・作家・ノンフィクション作家に。
日本放送作家協会会員・理事
日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム・監事
日本脚本家連盟会員。